佐藤めがねの闘病記録

子宮平滑筋肉腫と告知されました

告知を受けて 2016年10月

何度も書きましたが、治療を通して一番つらい時期が

告知後の2週間くらいでした。

当日から、まったく食欲が出ません。

父が気を遣ってお夕飯にお刺身(私の好物)を買ってきてくれましたが

2切食べたらもう充分でした。

 

私は実家では2階に寝ていたのですが

それも寂しくて旅行中の母のベッドを借りて1階で寝ていました。

でも全く眠れませんでした。

不安ばかりが襲ってきます。

 

私はもう死ぬのだろうか。

たとえ今死ななくてもこの先再発を繰り返し手術を繰り返し

結局数年後には死ぬのだろうか。

それって、何の意味があるんだろう。

配偶者も子供も彼氏もいない、なんのために生まれたんだろう。

死ぬって何なんだ?

死ぬために生きるって、一体何なんだ!?

嫌だ!死にたくない!絶対に嫌だ!

 

泣いて落ち着いてうとうとして

目が覚めて泣いてトイレ行って落ちついて…

そんな夜を繰り返していました。

 

私は特に人生に目標はなく

早くおばあちゃんになって人生に幕を下ろしたいと思っていましたが

いざ死を感じるとやっぱり死にたくなかったです。

やりたいことなんて特にないからやり残したこともないけど

それでも死にたくない…!

 

しかし、落ち込んでばかりだったわけではありません。

ひたすらショックで怖くてたまりませんでしたが、

その時は術後でもあったので、運動をしなくてはなりません。

父は料理をしないので母不在の間は毎日お夕飯のお惣菜を買いに行っており

三日目辺りから父に付いていって帰りは歩いて帰るようにしました。

「絶対に治る!私は生きる!」と繰り返し繰り返しつぶやきながら歩いていました。

 

悲しくて途中で泣けてきますが、それでもつぶやき続けてました。

つらくても「今日は10分歩いた!」という小さな達成が

気持ちを明るくしてくれました。

 

母が旅行中だったため、数日間は父と二人きりでした。

本当にすごく気を遣わせたと思います。

父なりに精いっぱい私をサポートしてくれました。

いつも家にいてくれました。

一日、ほんの数時間だけ父が家を空けたことがありました。

私も別にそれくらい平気だと思っていたのですが、

一人で留守番をしていることがとてつもなく寂しかったです。

 

数日後母が旅行から帰ってきた時、

最初はお互いに会話を避けているような感じで

なかなか切り出せませんでした。

母は私の前では一度も泣きませんし、取り乱すこともありませんが

それでもやはりショックだったと思います。

しばらくしてから私から声をかけ話をしましたが、

何を話したのか覚えていません。

とにかく、次の手術を受けよう!と

それしかないのですが、そう話し合ったと思います。

 

ふと、告知された心境についてネットで調べてみようと思い立ちました。

病気については調べないようにしているし、嘘ばかりというのも分かっていましたが

何かヒントがないかな、と思い検索してみました。

すると、告知後はだれでもショックを受けるということ

また、そのショックもだいたい10日から2週間ほどで落ち着くものだと

そういう説明を見つけました。

なんだかほっとしました。

今すごく落ち込んでいてもきっと私はしばらくしたら立ち直る、

そう思えました。

なので、食べれない事眠れない事をあまり深く考えないように決めました。